最後に、くりっく365と相対取引では、複利計算のときこそ大きな差が出てきます。 例えば、くりっく365であるというだけで得した54万円が、単純計算ですが10年続いて、かつそれが来年以降10%の年利で回せたものと考えてみます。(FX・くりっく365であればこのくらいの年利は安全に得られます) 1年目54万円 2年目54万円+54万円×110%=118万円 3年目118万円+54万円×110%=190万円 ・・・ ・・ 5年目354万円 10年目1086万円 たった10年で「通常のFX」と「くりっく365」ではこれだけの差がつきます。 しかも、差は「通常のFXで口座を作ったか、くりっく365で作ったか」のほんの1〜2日の手続きの違いです。 商品先物取引では王朝側による修史事業もまた盛んに行われた。シャーミーとヤズディーによってティムールの伝記である二種類の『勝利の書』が著されたのを初めとして、シャー・ルフの時代にはティムール朝はチャガタイ・ウルスの後継国家としての意識が一段と顕著になった。シャー・ルフは歴史家ハーフェズ・アブルーらに『集史』をはじめとするイルハン朝時代からの歴史情報の諸資料の総括を命じ、あわせて『集史』自体もモンゴル帝国におけるバルラス部族とチンギス・ハン家の関係を強調したかたちに再編集させたバージョンを作成させている。この過程でモンゴル的な祖先伝承と預言者ムハンマドとの血縁的・宗教的関係を連動させ強調する主張も盛り込まれた。この種の主張はイルハン朝時代に萌芽があったがティムール朝ではより鮮明にされるようになった。この影響は後のオスマン朝やサファヴィー朝、シャイバーニー朝などでも受継がれていく。またこれらシャー・ルフ治世下のヘラートでの修史事業の伝統は、スルタン・フサインの治世にナヴァーイーの保護下で世界的な通史である『清浄園』を著したミールホーンドや、その外孫でバーブルに仕えた『伝記の伴侶』の著者ホーンダミールなどを輩出している。 投資信託、シャー・ルフの兄ミーラーン・シャーの孫アブー=サイードが、中央アジアのトゥルクマーンとウズベクの支援を受けてサマルカンドを奪取、シャー・ルフ家の王子に代わって第6代君主に即位した。アブー=サイードはナクシュバンディー教団の支持を獲得してその宗教的権威のもとにトランスオクシアナの勢力を固め、1457年にはアゼルバイジャンで反乱が起ったためにヘラートを放棄して東イランに帰還せざるを得なくなった黒羊朝と交渉して、ヘラートを含むホラーサーンを始めとするイラン東部を返還されて、シャー・ルフ没以来の10年ぶりのティムール朝の単独君主となった。 アブー=サイードの治世では、反乱やウズベクの侵入に悩まされつつも統一は保たれた。しかし、1467年にアゼルバイジャン方面でトゥルクマーンの白羊朝が黒羊朝を破って勢力を確立すると、これを東部イラン回復の好機と見たアブー=サイードは西方へと遠征を敢行し、1469年に白羊朝の英主ウズン・ハサンの軍によって大敗を喫し、殺害された。アブー=サイードの死後、その長男スルタン・アフマドがサマルカンドで即位するが、もはやマーワラーアンナフルを確保するのが精一杯で、ホラーサーンではヘラートを本拠地とするティムールの次男ウマル・シャイフの曾孫スルタン・フサインが勢力を確立していた。こうしてティムール朝はサマルカンド政権とヘラート政権の分立の時代に入る。 外貨預金ではウルグ・ベクの知事時代に繁栄の絶頂を極めていた都市文化が衰退に向かいつつあったが、ナクシュバンディー教団の権威のもとで安定が保たれた。しかし、1494年にアフマドが没すると王子たちと有力な将軍たち、ナクシュバンディー教団の教主たちの間で王位を巡る内訌が勃発し、さらに北方のウズベクの南下・侵入によってサマルカンド政権の支配は急速に崩壊していった。1500年、サマルカンドはシャイバーン朝のシャイバーニー・ハンによって征服され、サマルカンド政権は滅びる。1503年にはアブー=サイードの孫バーブルがサマルカンドを奪還するが数ヶ月で再びシャイバーニー・ハンに奪取され、中央アジアはシャイバーン朝に制圧されてゆく。 アラーウッディーン=ハルジーの死後、ハルジー朝は、後継者争いの混乱の末に、ギャースッディーン=トゥグルク(位1320年〜25年)に率いられた反乱軍によって倒され、1320年、新王朝であるトゥグルク朝が建てられた。ギャースッディーン=トゥグルクは、従来のデリー市街とは別に新たにトゥグルカーバードという新都の建設を行い、ベンガル遠征などで成功をおさめたが、デリーに帰還した際に、息子のムハンマドの命により父スルタンの勝利の歓迎のために建てられた建物の倒壊によって死亡した。そのため息子による暗殺説やデリーの高名な聖者シャイフを処罰しようとしたために呪いで死んだのだなどといううわさがたてられた。 CFDが継ぐと、インド全域を支配下に置くべく、1327年に都をデカン高原のデーヴァギリ(デオギール)に遷し、ダウラターバードと改名し、スーフィー聖者たちや高官や武将たちに移動するよう命じたが、デカン地方のヒンドゥー教徒はこれを歓迎せず、一方で内部からの反対が根強く、2年ほどでデリーに都を戻さざるをえなかった。しかし、デリーからダウラターバードを結ぶ道路網が整備されたおかげで、南インドと北インドの文化的、経済的交流が促進された。また、ムハンマド=ビン=トゥグルクは、ハルジー朝滅亡後、独立の傾向を強めていた南インドの小王国を、1328年までにことごとく併合し、ほぼ全インドを再統一した。その版図拡大には多大な軍費がかかり、財政を悪化させてしまう。その解決策のひとつとして、一タンカ銀貨に対し同価値の青銅通貨を発行し、これを代用貨幣にしようと試みたが、偽造を防ぐことができず、廃止を余儀なくされた。 ムハンマド=ビン=トゥグルクの内政施策の特徴的なものは、前述の通貨改革のほかに、農業政策が挙げられる。まず、北インドのガンガー=ヤムナー川流域、現ウッタル・プラデーシュ地方で、地租の適正化と軽減を試みたことが挙げられる。最初は比較的順調であったようだが、結果的に飢饉なども影響もあって失敗に終わった。その原因については、官吏たちが無能か、不慣れか、政府の取り分が過大な査定だったなど積算が恣意的であったなどという説がある。これを解決するためにディワール=アミール=コーヒーという農業生産の拡大を図る官庁を各地に置き、耕作に従事する者に対し、低利で金を貸し付けて小麦、サトウキビ、ブドウ、なつめやしの栽培を振興する政策を実施したが、えらばれた耕作者たちが経験不足だったために失敗した。晩年には、インド北西部のシンド、グジャラート、インド南部やベンガル地方で反乱が勃発し、1336年にサンガマ家のハリハラによるヴィジャヤナガル王国の独立、1347年に、デカンのグルバルガでアフガン人傭兵出身の地方長官、アラーウッデイーン=ハサンが独立して、バフマニー朝を建てるに及んでデカン地方から南インドの版図を喪うことになった。 不動産投資したムハンマド=ビン=トゥグルクの従弟、フィーローズ=シャー=トゥグルクは衰退した王朝を回復すべく、積極的な内政改革に取り組んだ。まず、貴族の反乱を抑えるために官職と領地の世襲化を容認した。さらに残酷な身体に対する刑罰の廃止、失業者に対する職業補導などにいずれも成功を収め、離反していた人心を取り戻した。また、新しい都市・モスクや灌漑施設を建設するなど、内政面で大きな功績を挙げた結果、衰退したトゥグルク朝は往時の勢いを取り戻したのであった。だが、フィーローズは、軍人としては三流だったため、対外遠征はほとんど失敗に終わってしまったのである。